なぐりがき2

数々の木とビルが連なる東京の郊外、そこのハズレの方、東京のビル街という都市部と対照的な例を持ち出すには丁度いいぐらい、田舎っぽさを象徴する草木の香りを漂わした場所に三本の木々が目に入る。

三本共に寄せて暮らしておるような感想を抱くのだが、しかし一本は残りの二本と少々の距離を保っており、余りのもう一本と一本とは比べれば近い距離に座しておる。

離れた一本にどこか負け者のような、ネガティブな意味で敢えて離れた位置に生やしている、それも――そうさせられた――ような気もする。

その三本の木は下から見ていくと上の方へ目をやるにつれて、点々と淡い紅の色を備え、引いて見ると見事なことに星々の集う宙であることがわかるる。

なんとも美しい桜である。

 

私は自身の中にこういう持論を持っている。

それは、桜は文学的な側面において「出会い」と「別れ」の二つの意味を持っているというものだ。

桜は花を開き、そこに出会いと類似した美しさを宿る。また、桜によってそれを求める観察者がこぞって集まる。人を集め、人々の交流の機会になることも「出会い」という訳である。

そして、桜は枯れた暁に花を散らせ、ひとつの美に終わりを迎える。集めた観察者は解散し、お花見を飲み会で盛り上げる見物客も来なくなる、そこに「別れ」がある。

 

これは人の恋愛にも通ずる。

学生が桜の下で告白し、それに功を奏して桜が思い出となり、季節の変ずることなき間、桜の咲く所は良いデートスポットと成す。

季節が移り、桜の散る頃に喧嘩があったのか、倦怠期であったのか、懐かしい頃には桜が咲いていたが今はただの木となったそこで恋の関係を閉ざす。

こういう物語を一作品は見かけたことがあるだろう。

 

物質的に固定された場所というものは、そこにある物に思い出を込める。そして、その場所、その物に思い出を置き去り、閉じ込める。

 

三本の桜の木々は思い出を具現しているのだろう。私は離れた一本、私のかつての彼女はもう一本、その彼女の浮気相手が最後の一本に違いない。

私は断言する。何故なら思い出の具現化・固定化であると同時に、それらの観念を念じた私のこの手で埋めたのだから。

 

毎日遠くに腰を下ろし、三本の桜の木を眺める。

繰り返すこと三年が経つ。

その重く根を生したような腰に力を入れ、立ってみて、それでもってまた凝視する。段々と意識がぼやけ、対岸には自分の姿が映し出される。私の脳が命ずる指示は、向こう側の自分にも反映されていた。こちら側に立っている、正真正銘の私が自分も木なのではないかと思ってしまっていた。

 

かつて地に埋めた呪術は私の頭が考えた結果で、その考え、呪術は今も私の血に流れていたのだ。

意識を戻し、ズボンのポケットから取り出したスマホを操作し、検索エンジンに「地縛霊 除霊方法」と入力する。

どこかの偉い人物の言った「桜の木には死体が埋まっている」は本当なのかもしれない。桜には、その下に埋まった死体によって、地縛霊と化している真実も眠っているのではないか。

私の心の悪霊はまだ起きておらず、また除霊できることを願って、そう思ってしまった。